
間主観真理〈主観しかない世界で、客観はどう成立するのか〉
どうも!
真理ギフターのけーです。
アシスタントのラニです。
今回の真理は「間主観真理」です!
間の主観?
なにやら複雑な
そう難しいものでもないよ。
ただ、当たり前に思っていたことにメスを入れてみたら真理が見つかったよ。
ある日の仕事中、ふと
客観的に見るとどうだろう
という言葉が自分の中から出てきた。
みんなも使う「客観的」という言葉
それに対し、こんな疑問が生まれた。
「ん?客観的って、誰目線? 第三者? でもその人の視点も主観じゃないの?」
……そう思った瞬間、脳内で何かがバチッと閃いた。
「あれ? もしかして──この世って、主観しか存在してないのでは?」
世の中に存在するのは「主観」だけ
よく
客観的に考えろよ!
って言うけど、そもそもその“客観”って何?
誰かの視点? それってただの“その人の主観”でしかないよね? って。
じゃあ「世間的には」?「常識的には」?
それもまた、多数の人の主観を重ねて共有してるだけのことじゃない?
そう考えたとき、思ったのが──
この世界には“主観”しか存在しない。
客観とは
重ねられた主観が“それっぽく”なっただけ
のものだ。
じゃあ、なぜ人と“わかり合える気がする”のか?
ここが面白いところで、
主観しかない世界なのに
なぜか私たちは
「相手の気持ちがわかる気がする」し、
「常識」とか「ルール」とか、「多くの人と同じ!」って信じられる。
その理由が、今回の真理。
“間主観”という構造によって
主観どうしが交差する領域が生まれる。
それが、私たちが“客観”と呼んでるものの正体なんじゃないかと思った。
間主観真理とは
簡単に言うと──
「主観しか存在しないが、複数の主観を重ね合わせることで、“仮の客観”が成立する」
この“仮”ってのがポイントで
完全な客観なんてものは存在しない。
でも、「ある程度、みんなで納得できる主観」を重ねて
そこに“再現性”や“ルール”や“共通語”をつくっていくことはできる。
つまり──
客観は、主観が創る幻想ではあるけれど、“機能する幻想”なんだ。
わかりやすい例で言うと・・・

Aさん
このリンゴジュース、すっごい甘いね!
Bさん
え?私はそんなに甘いと思わないけど…普通かな?
さて
どっちが“正しい”んでしょう?
ここで出てくるのが、「間主観」という考え方。
解説します!
「甘い」という感覚は、100%主観。
Aさんにとって甘くても、Bさんにはそうでもない。
客観的な「甘さ」というものは存在しない。
でもね──
「何人かに飲んでもらって、大多数が“甘い”と感じた」としたら?
それは「甘いと感じられる傾向があるジュース」= “間主観的な甘さ”と呼べる。
つまり・・・
主観どうしはバラバラ
でも、共通点や重なりを見つけていくと
「だいたい甘いよね」とか「酸っぱいよりだよね」みたいな“仮の共通理解”が生まれる
→ これが「間主観真理」!
スーパー×ノーマル真理との接続
実はこの間主観真理、他の真理とも深くつながってる。
私の提唱する、スーパーノーマル真理が「絶対はない。でもそれすら絶対ではない」と例外の存在を許す世界なら、
間主観真理は「主観しかない。でも主観を重ねれば“通じ合い”は構築できる」と言ってる。
一見矛盾してるけど、
この矛盾こそが「真理の入り口」だって、私は信じてる。
↓スーパー×ノーマル真理についてはこちら↓

後で読む人ように、最後らへんにも貼るので後にするわ!って人はそこでどうぞ^^
最後に
たまたま仕事中にぽろっと出た疑問から
こんな真理にたどり着いた自分が、ちょっと面白かった。
やっぱり私にとって「問い」ってのは、
誰かに与えられるものじゃなくて
“自分の中で勝手に生まれるもの”
なんだなと再認識した。
そして今回また、
「主観しかない世界で、他者とどうつながれるか?」
という、とても優しい構造にたどり着けた気がする。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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