
「絶対なんてない…でもそれだけは絶対」──スーパー×ノーマル真理、はじまるよ!【対話式哲学】
第3章 屁理屈と真理のちがい
・・・と、ここまでが「スーパー×ノーマル真理」という言葉が生まれるまでの話でした。
ここからは
この真理がどうして”屁理屈”から生まれたのか
そしてそれが人を救いうる理由について
少し踏み込んで話していきます。
読んでくださってるあなたの中にも
「いやいや、それ屁理屈でしょ?w」
という声があるかもしれません。
安心してください。その疑問、めっちゃ正しいです。
は?木材をペスって言い張るとか、意味不明なんですけど…
「ぷふふぅ〜、でもそれ、意外と“真理の芽”なんですよ…
一見すると同じように見える「屁理屈」と「パラドックス」ですが、私の中では、明確に“超えてはいけない境界線”があります。
それは、“整合があるかどうか”です。
つまり、辻褄の有無です!
整合なき屁理屈
とにかく俺が正しい!
↑説得力なし
これは例外だから!
↑無根拠に逃げてるだけ
整合あるパラドックス
・「表面的には矛盾しているが、構造的には筋が通っている」
・「複数の視点で見たとき、全てに破綻がない」
つまり、“屁理屈”でも“整合があるなら真理になりうる”ということ。
これが、スーパー×ノーマル真理が可能にしてくれる、ズレの許容力なのです!
第4章:真理とは「救済の構造」である
私があの「木材=ペス」構造を思いついた時
それは“屁理屈遊び”ではありませんでした。
周囲のズレに悩んできた自分、どこか自分はおかしいと思ってた自分に――
「いや、俺は俺。周囲は周囲」
って”言える構造”がほしかったんです。
「俺がおかしい?いやその限りではない。」
とね。
例えば――
俺は身長が低い・・・。
このように自分の身長が低いことに悩んでいる人がいたとします。
その人が苦しんでいるのは、「低い」ことそのものではなく、
“低いこと=劣っている”という認識や、誰かとの比較による価値の判断です。
でも、そこに「スーパー×ノーマル真理」の視点を差し込むと──
「この身長は低い。しかし、その限りではない。」
他者との比較では“低い”かもしれない。
でも、人にとっては“親しみやすさ”や“可愛げ”として機能していたりする。
「確かに身長が低いが、これが俺なんだ!」
と言えるようになるだけで
その人は”低さ”というラベルから自由になれる。
変えることが出来ないコンプレックスは、認識を変えることで楽になれることがあります。
気にしていたことを気にしなくなることは、とても難しいことだと思います。
しかし、認識を少しずつ変えるだけで自分を許すことができると、私は信じてます。
悩みの多くは
”外から貼られた意味づけ”
なんだよな
“意味”にこの真理を与えたとき、悩みは“個性”に変わるんです
スーパー×ノーマル真理とは、時に世界を変えるナイフであり、
時に誰かをそっと肯定する羽毛布団にもなりえます。
終わりに、この真理はあなたの中にも
「絶対なんてない。それだけは絶対だ。しかしその限りではない。」
この真理の中に私は自分自身の構造を許す道を見つけました。
そして、この記事を読んでくださったあなたにも――
自分を許せるきっかけになれると嬉しいです。
