
「字が綺麗な人は心も綺麗?──美の自壊パラドックスとは」整っている人の“発言”が、整いを壊す瞬間。
とある字が綺麗な人が、その場にいない人が書いた連絡ノートの汚い字を見てこう言った。
字が汚い人は心が汚いんだよ。
心が綺麗なら字も自然と綺麗になるもんよ。
それはあると思います~
・・・
その人の字は、たしかに綺麗だった。
曲がりもなく、丁寧で、手本のような美しさ。
けれど──その一言が発せられた瞬間、
その人が書く綺麗な字すら、少し“にじんで”見えた。
どうも!真理ギフターのけーです!
アシスタントのラニです!
今回は私が実際に出会ったパラドックスを紹介したいと思います!
その名も
「美の自壊パラドックス」
物騒な名前のパラドックスですねぇ。
顔にヒビとか入ってそうで怖い!
安心してラニ。
怖い系ではないよ。
でも、
気づけない本人が怖い系のパラドックスです。
それでは始めましょう。
第一章 字と心の関係って本当にあるの?
昔から「字は体を表す」って言われてます。
綺麗な字=丁寧、誠実、几帳面。
そんなイメージが刷り込まれています。
けど、それって“そう思いたいだけ”じゃない?
書道を習えば、誰だって綺麗な字は書けるようになれます。(ほとんどは)
では、心も一緒に整っていくのでしょうか?
言葉も丁寧になるのか・・・?
そういう思い込みは、“整い”を暴力に変えることがあります。
第二章 今回の字が綺麗な人の中にあるズレ
字が綺麗な人は整って「見える」人──
たとえば、字が綺麗な人、身なりの整った人、所作が丁寧な人──ほど、
整っていないものに厳しくなることがあります。
今回の発言
字が汚い人は心が汚いんだよ。
心が綺麗なら字も自然と綺麗になるもんよ。
字の綺麗さと心の綺麗さをイコールで結んでしまっている。
このように言い方が“整っていない”なら──どうだろう。
整っているように見える人が、不整合な言葉を吐いた時、
その整いは、内側から崩れていきます。
私はそれに気付きました。
これパラドックスだ!
字が綺麗な人でも、その言葉が他者を見下していたら、
「心が綺麗=字が綺麗」は成立しない。
整った外面と、にじむ内面。
そのズレこそが、違和感・・・
つまりパラドックスの正体だ。
第三章 本当の整いとは何か?
外見の美しさ、字の綺麗さだけでは足りません。
言葉、まなざし、間の取り方、にじみ出るもの。
それこそが、“整っているかどうか”を決めます。
だから、字が綺麗だからと言って心が綺麗ともならないのです。
そもそも心が綺麗ってなによ。
礼儀正しいやモラルがあるなど、誰の価値観で整ったのかという曖昧な概念ですね。
心の綺麗さは誰がその基準を決めているのだろう。
もしその“綺麗さ”が誰かを傷つけているなら──
それはもう、綺麗とは言えないのかもしれませんね。
整って見せたい人と、整おうとしている人は違います。
本当に整っている人は、他人を見下す発言はしません。
あの発言をした人は、それに気付けるといいですが・・・。
終わりに
字が綺麗でも、その人の振る舞い次第で、その文字を綺麗に思えなることがあります。
綺麗な字が“綺麗であり続ける”ためには、
偏見のない綺麗な言葉が必要だ。
